第二芸術論(桑原武夫)批判                                                                                                                                            むじな庵 

まえがき   

・詩人が学者とディベートしても勝てるはずが無い。作品で反撃すべきであった。 

・芸術であるかないかはジャンルの問題として捉えるべきではなく、作品で判断すべきだろう。

 ・俳句が、短歌が、日本の韻文が敗戦後の日本の文化を、精神を辛うじて護り、日本人の誇りを支えたのだ。 

 

  桑原武夫著「第二芸術-現代俳句について」(現代俳句第二芸術論)を読む。

 桑原先生は流石に一流の文化人だ。その文章は知識と機知に富み、きらびやかな文体でぐいぐいと人を引きずりこむ。その論法は説得力があり読むものを納得させてしまう。しかし、冷静になって読み返してみるとその内容は偏見と誤認に満ち、これが本当に一流の文化人の考えていることなのかと疑わざるを得ない。 

  

  「第二芸術論・現代俳句について」には何が書かれているのか、簡単に整理してみた。 

大きく分けて下の4点だろう。 そしてこの小論文全体が桑原武夫の芸術論である。

1、フランス礼賛

2、俳句ジャンルへの攻撃(実は日本人と日本の芸術全般への愚弄)
3、芸術はエリートだけのもの(庶民が関わってはいけない)
4、桑原先生の芸術観 (の一端)

 それはどんな言葉で語られているか。講談社学術文庫版「第二芸術―現代俳句について」からピックアップしてみた。文末にこの本文で述べる解説文に付けたナンバーを赤数字で振った) 

1、フランス礼賛 

①「トルストイ全集と菊池寛全集とを読み比べてみれば、この2作家の優劣は愈々よくわかる・・・」(小説)  
②「ロダンやヴールデルの小品をパリでたくさん見たが、如何に小さなものでも帝展の特選などとははっきり違う」(彫刻)  10
③「 西洋近代芸術は大地に根は有っても理想の空高く花咲こうとする巨樹である」(精神)(わが国の芸術は上に伸びる花ではなく、地に這う花)  21
④「フランス滞在中、インテリの会話、さらに下宿の食卓の談話にすら下手な付き合いに劣らぬ言語の芸術的使用を認めることがよくあった。・・・ところがフランス人は・・・これを芸術だとは思っていない。彼らは芸術と言うものをもっと高いものと考えている。」(談話)  28
⑤「ヨーロッパの偉大な芸術のごときは何時になっても正しく理解されぬであろう」(レベル) 32
 

2、俳句ジャンルへの攻撃 

①日本の明治以来の小説のつまらない理由の一つは、『作家の社会的思想的無自覚』にあって、そうした創作態度の有力なモデルとして俳諧がある。  
②現代俳人の作品の鑑賞、あるいは解釈という文章や書物がはなはだ多く存在する。詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段がとられているということは、芸術としての未完結性、脆弱性を示す。  
③同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事。  

④一流大家と素人の区別がつきかねるという事実。俳人の名を添えておかないと区別がつかない。  8
⑤付き合いの発句であることをやめて独立したところにジャンルとしての無理があった。  12
⑥芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難  13
⑦(俳句界では)芸術家の地位は芸術以外のところで、つまり作者の俗世間における地位によって決められる。  14
⑧芭蕉を崇拝し続けたゆえに堕落した。  19
⑨銀排出運動に鮮やかな宣伝句を供出した大家たちが今もやはり第一流の大家なのである。芸術家が社会的に何をしても、それが作品そのものに何の痕跡も残さぬ。俳句とはそうしたジャンル。  20
⑩現実的人生は俳句には入り得ない。  22
⑪今日の世に風雅などに遊んでいるものから光のさしようがない。  23
⑫現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別するがよい。  26
⑬日本で芸術が軽視されてきたのは、俳句のごとき誰にでも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。  30
⑭国民学校、中学校の教育からは、俳諧的なものを締め出してもらいたい。  33

 

3、芸術はエリートだけのもの

 桑原先生は鼻もちならないエリート礼賛主義者のようだ。「エリート以外は芸術に携わるな。エリートたちの作ったものをありがたく拝賞していればよい」というお考えだ。そして「都合の悪いものは抹殺してしまえ」というファッショ的な考えをお持ちのようだ。それこそ芸術にそぐわない、有ってはならない考え方だろう。 

①かくて隠者も大衆町人のうちに支持を求めなければならなくなる。  18
②他に職業を有する老人や病人が余技とし・・・かかる慰戯を現代人が心を打ち込むべき芸術と考えうるだろうか。   25

③床屋の俳句、あるいは川柳のごときものを芸術と呼んでよいものだろうか。  27
④フランスでは民衆は芸術を味わう。ただしこれを手軽に作りうるものとは考えていない。 29 

 

4、桑原先生の芸術観 (の一端)

①作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるのでなければ芸術の意味が無い。  
②近代芸術は全人格をかけての、つまりひとつの作品を作ることが、その作者を成長させるか堕落させるかいずれかとなるごとき、厳しい仕事である・・・。  31
 

 

第二芸術論批判 

 「第二芸術―現代俳句について」の問題文を頭から順を追って批判する形をとった。 

 この「第二芸術論」は現代俳句を批判しているように見えて、実は日本の芸術全般、俳句界はもちろんだが、とりわけ小説界を批判し侮辱している。さらに言えば日本人と日本の芸術全部を偏見により愚弄している。

  「第二芸術論」が俳人たちに与えた最も大きな衝撃は、論文の中で手厳しく愚弄的に攻撃されていることも勿論だが、特に、有名・無名の15句(下記)の作品を目の前に突きつけて語っていることだろう。このことで俳人の方々は桑原先生のレトリックに引っかかり、自由な発想での反論が出来なくなってしまったのではないだろうか。


芽ぐむかと大きな幹を撫でながら(青畝)
初蝶の吾を廻りていずこにか 
呟くとポクリッとベートヴエンひゞく朝   (草田男)
粥腹のおぼつかなしや花の山      (草城)
夕浪の刻みそめたる夕涼し       (風生)
鯛敷やうねりの上の淡路島
爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り   (井泉水)
麦踏むや冷たき風の日のつゞく     (蛇笏)
終戦の夜のあけしらむ天の川
椅子に在り冬日は燃えて近づき来    (たかし)
腰立てし焦土の麦に南風荒き       (亜浪)
囀や風少しある峠道
防風のこゝ迄砂に埋もれしと        (虚子)
大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
柿干して今日の独り居雲なし       (秋桜子) 

 

 、桑原先生が、「これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じえない」、と断じているのは、ここにつまらない作品ばかりを上げたことにあるだろう。用意周到にも数人のインテリに見せ同調を得ている。どんな基準でピックアップしたのかわからないが俳句を否定するために恣意的に作品を選んでいることは明らかでありフェアではない。

 そのことの卑劣さはひとまず置くとして桑原先生の気持ちを慮ってみると、ここに挙げた作品が名家といわれる俳人の作品と素人とも言える雑誌投稿句の優劣がつかないこと、むしろ無名の作家の投稿句に軍配が上がるという事実と、ときの俳壇の現実が符合していたことにあるのだろう。 

  しかし一番問題なのは桑原先生にとって、俳句が面白くない(「私の心の中でひとつのまとまった形をとらぬ」)ということだろう。しかし、そんなことで芸術論を語ってもらっては困る

 桑原先生にとって興味が無いということと、そのジャンルが芸術でないということとは関係が無い。

 桑原先生のお話には随所に「俺は一流なのだ。その俺の言うことを疑わずに信じろ」と思わせるエリート臭さがある。エリートだけが芸術を語る資格があるのだ、という臭いが紛々としている。 

  ところで芸術とは何だろう。第一芸術と桑原先生の言われる第二芸術とを隔てるものは何だろう。改めて桑原先生にお聞きしたいところだ。 

 2、桑原先生は「第二芸術」の冒頭に書いている。「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧がある・・と。 
 この文章が何を言っているか理解できますか。つまらなくて無自覚なのは小説のはずなのだが、俳諧にすり替えるために有力なモデルとして・・・などとこじつけている。こうしたすり替え論法が随所にみられるのだ。彫刻や映画や詩について語っているのに、いつの間にか俳句の批判にすり替えるというやり方だ。 
 また、他のジャンルの芸術にも同じように言える問題であるのに、そのことは無視して俳句のみにあるように言い換えてしまう。そこで語られている問題点は当然のことに俳句にも言えることなので、巧みな論法故に「そうだなあ!」と思わされてしまう。まさに詐欺師的なやり方なのだ。 

 たとえば、この「・・思想的社会的無自覚・・」の問題。恐らく小説家や俳人の多くは「無自覚」ではなかったろうし、無自覚なそれも多くいただろう。それはどのジャンルにも当てはまる問題だ。ジャンルによってそのすべての人が無自覚であったりなかったりするものではないからだ。また、小説家が無自覚であったとしても俳句の状況とは関係ないだろう。それぞれの個人の問題なのだ。 

 先生は攻撃対象を見つけると、その欠点とそれを立証するための材料を集め、それ比較する対象については賞賛すべき点とその最上級の材料を持ってくる。どんなジャンルであれ、その専門家の最低のものと専門外の最上のものとを比べれば優劣が難しくなるに決まっている。 

 そうした桑原先生の批評態度を確認した上で先生の語っているところを一つひとつみていこう。 

 桑原先生は例の15句の問題のすぐ後に菊花展の話題を出し「退屈したが俳句はそれと同じかそれ以下で苛立たしさを感じる」という。だから芸術ではないという論法だ。菊花や俳句に興味が無いということは桑原先生の自由だ。しかし、先生が感動を得られなかったから芸術ではないという言い方は、先にも述べたが「俺の感性のみが正しい」ということの押し付けであり傲慢が過ぎる。 

 3、そして「作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるのでなければ芸術の意味が無い現代俳句はそういう弱点を持っている」と言うしかしそれは俳句のみではない。どんなジャンルの作品にも言えることだ。それは作者の持っているものと鑑賞者の持っているものが異なるためであり、鑑賞者は自分の感性と経験で鑑賞し感動するからだ。それだからこそ芸術の鑑賞者は自由な解釈をし感動を持つ。「作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるものでなければ芸術の意味はない」などというものではないのだ。作品は一人歩きし、鑑賞は享受者の自由なのだ。 

  それは絵画でも音楽でも同じだ。逆に「作者の経験が鑑賞者のうちに再生産」などされるものは極めて少ないだろう。たとえばサルバドール・ダリの絵をみて、ダリの経験が再生産できた方がどれだけいるだろうか。モーツアルトを聴いてモーツアルトの経験を再生産された方がどれだけいるだろうか。 

  先日東大生のあるグループと話をしていて「芸術とは何ぞや」という話になった。さまざまな意見が出たが、最大公約数的にまとめてみると「芸術とは人間が作り出したもので、人間の心に感動を与えるもの。そして、芸術は深く考えることに意味がある」ということになった。

  私はこの「深く考えることに意味がある」という立場に賛成である。桑原先生の言われるような、思想的社会的に自覚しているかどうかは必須条件ではないだろう。もっと純粋に“美”を追求することも優れた芸術的態度だと思う。 

 4、さらに「詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、芸術としての未完結性すなわち脆弱性を示す」と言う。ここでも独断的に詩にパラフレーズが多いから非芸術的だと言っている訳だが、それはいつ決まったのだろう。 

  また、パラフレーズがあるということから「芸術としての未完結性すなわち脆弱性を示す」と言う。たしかに未完結性については肯定せざるをえないが脆弱性についてはどうだろうか。一つの句に多くの鑑賞や解説、特に鑑賞が与えられるということは、それだけ多くの人が強い関心を持ち、鑑賞文を書きたくなるほどに感動を与えたということであり、作品の強さを表していると言えないだろうか。 

  桑原先生は詩のパラフレーズがあることは非芸術的だと言われるが、何故それが言えるのだろう。たとえば音楽にも小説にもそれはあり映画にもある。魅力的な作品ほど多いといってよいだろう。なぜ詩だけはいけないのだろう。その根拠がわからない。

   そして、「ヴァレリーの詩は極度に完成しているからアランが注釈を加えていても問題は無い」と言う。

   とにかく先生の肯定するものに対しては「極度に完成」などと最大級の賛辞を与え、それは何をしても許される、という考えだ。 

 私は俳句の良さは、完結性が低いことにも有ると考えている。それ故、作者は作り出した後も何度も何度も反芻し、舌で、心で転がし、あたため、推敲を重ねるのだ。数年後にやっと完成するということさえある。捨てられることも少なくない。その過程が芸術的行為なのだ。完結性と芸術性は別物なのだ。 

  句を玉とあたためている炬燵かな  虚子 

  この句の良し悪しは諸兄の判断にお任せするとして、桑原先生は何ゆえ唐突にこの句を出してきたのだろう。一切の論評を加えていない。おそらくこんな怠惰な俳句作者の風景を示すことで、俳句を「菊作りと同じ慰戯なのだよ」と言いたいのだろう。しかし私には俳人が自ら作り出した句にじっくりと推敲を重ねている風景が浮かんでくる。片意地張らずにゆったりとした風情に表現している。しかし、頭の中は様々に活動しているのだろう。芸術的行為だからといって別に天を突く巨樹の上で風に吹かれて揺れながら考える必要はない。 

 5、水原秋桜子が「俳句のことは自身作句してみなければわからぬもの」と言ったことに対しても攻撃しているが、これは秋桜子の実感なのだろう。俳句は簡単に見えて、実際に句作してみると思いも寄らぬ苦悩にぶつかるのだ。これはまさに自身作句してみてわかることなのだ。かといって、だから俳句は素晴らしい、ということにはならないし、その逆でもない。そういうものだということだ。 

  桑原先生は「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、小説のことは小説を書いてみなければわからぬ、などといったものは無い」と言うが、ただそういうものが無いだけの話だろう。実際は小説も同じように書いてみるとわかる様々なことがあるはずだ 

 、さらに「ボードレール詩鑑賞とか、ヴェルレーヌ詩鑑賞とかいう本はフランスには無い」と言う。

   先生のフランスかぶれは行き着く先が無いが、フランスに無いものは有ってはならないという考え方は芸術を語る方便にはならない。ただのフランスかぶれやフランスマニアの論理だ。

 俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事・・と言うが、先生自身も言っているように俳句は広く根強い人気があるのだ。すでに同好者だけが特殊世界を作っている環境ではない。逆に言えば日本人の多くが同好者であり、今では世界中に同好者がいる。

   特殊世界・・・?、日本中が特殊世界ということになってしまう。 

 「一流大家と素人の区別がつきかねる・・・」。なぜ区別を付ける必要があるのだろう。芸術を地位で考える桑原先生のことだから市井の庶民が、床屋や病人が立派な芸術作品を作るようなことがあってはエリートの地位を脅かされると思っていのだろうか。

 「トルストイ全集と菊池寛全集とを読み比べれば・・・」。なぜこの二人を比べるのだろうか。だいいち菊池寛は、先生のお説によれば近代的だから小説家にはあり得ないはずの戦争協力を積極的に推進した文学者だ。
   例の15句もそうだが、桑原先生はご自分の論理を成立させるために比較する対象を持ってくる。フェアではない。いつも牽強付会が過ぎる。いっそ源氏物語と比べると良いだろう。もともとお互いの寄って立つ社会が違うのだから。
 

10ロダンやヴールデルの小品をパリでたくさん見たが、いかに小さなものでも帝展の特選などとははっきり違う・・・」。ロダンやヴールデルはたしかに素晴らしいだろう。ヨーロッパの芸術の全てがそんなに素晴らしいものであればロダンやヴールデルに限らず劣ったものなどはどこにも無いはずだ。
  ところで先生はなぜ帝展の特選と比べたのだろう。帝展の特選というものの立ち位置さえわかっていない。いっそ運慶や左甚五郎と比べて欲しい。 ー

 先生は日本の美術作品は第二芸術であり、ヨーロッパの美術作品は第一芸術だと言うのだろうか。それならば俳句だけを槍玉に上げる必要は無い。あるいはそれさえも「思想的社会的無自覚な制作態度の有力なモデルに俳句がある」からいけないのだと言いたいのだろうか。 

注:ここでわかったことは、桑原先生は、俳句を批判したいのではなく、「日本はだめで、フランスは素晴らしい」ということを言いたいのだ、ということだ。

 11「俳句は一々俳人の名前を添えておかぬと区別がつかない・・・」。たしかにそうだろう。私には彫刻も音楽も、知っている作品でなければ区別がつかない。俳句はあまりに短いためますますわからない。傾向はわかっても特定はできない。だが作者がわからなくても楽しむことはできる。また、作者で評価する必要は無い。
 

 12「付き合いの発句であることをやめて独立したところにジャンルとしての無理があった・・・」。かなり厳しい指摘だ。とはいえそのことにより、俳句が表現する限界の広大さを獲得するという厳しい道を歩き始めることができたのだ。まさに芸術への道を歩き始めたということだろう。困難だからといって諦める必要は無い。 

 13「芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難・・・」。 その面はありそうだ。17文字という短い詩であるため、さまざまな感動体験を一句では表現しきれないことが多い。複数の作品で表現することもある。その中の一句のみを引っ張り出してきても不十分である場合があるからだ。そうした句を無名の俳人の珠玉の作品と比べた場合、優劣逆転することもあるにちがいない。ただしそれは俳句の欠点と捉えるのではなく、寧ろ懐の深さであると考えるべきだろう。

 ところで、桑原先生の言われる「その作者の地位を決定することが・・・」地位とはどういうことを指すのだろうか。桑原先生はやはり芸術作品を作品自体で見るのではなく、その作者の地位で見るべきだと言っているのだろうか。語るに落ちるの感がある。 

 14、(俳句ジャンルでは)「芸術家の地位は芸術以外のところで、つまり作者の俗世間における地位によって決められる・・・」。ここでも「地位」を問題にしている。このことを何度も挙げるということは、芸術を地位で評価するという桑原先生の姿勢を表している。芸術の評価の仕方を芸術家の地位に置く必要はないのではないだろうか。

 15、また、「俳人の大部分が党人である・・・」ことを問題にしている。句会という形を切磋琢磨の場とし、句会の代表者が権威を持つために中世職人組合的なグループ(?)が形成されていると言う。私にはこのことの真偽を実証する手立てがないのでそのまま信じさせていただくことにしよう。とはいえ現実には会に入らない膨大な俳人がいることを忘れるべきではない。このことは絵画などにも同じことが言える。 

 16「俳人ほど指導好きなものを私は知らない。・・行住坐臥すべて俳諧というような境地は、封建時代においてさえも有名な専門俳人以外は実行不可能なこと・・・」。   ここに続く文章、何を言いたいのか意味不明だが俳句だけで食っている俳人はほとんどいないから指導する上位者を尊敬するのだということだろうか。この辺のことは実態がわからないからやはり反論しないことにしよう。
 なお、絵画も音楽も多くの場合厳しい指導の下に鍛えられていることを知るべきだろう。その指導は俳人の比では無く厳しいものだ。

  17「俳諧は離俗脱俗の理想を説くと同時に俗談平語を旨とする大衆芸術である。すなわち相反する二方向を同時に含む・・・」。ここでも偏見による独断がある。俳諧は別に離俗脱俗ではないし、俗談平語のみならず口語、文語、外来語、新語を含め、より十分な表現を可能にする言葉を捜し、あるいは作り、また荒れた言葉を整えていく努力が欠かせないものだ。 

 また、先生は、ヨーロッパの芸術は大衆とは離れたところにある(離俗脱俗)と言っていられる訳だが、小説は天人の言葉ででも書いているのだろうか。たとえば普通のフランス語やドイツ語(俗談平語)で書いているのではないのか。その相反する二方向を同時に含んでいることは問題にならないのだろうか。 

 18「かくて隠者もその生活を大衆町人の支持のうちに求めなければならなくなる・・・」。 ここでも先生は、芸術はエリートだけのものだから大衆に支持を求めるものではないと言っている。エリートのみが人間なのだ、大衆は人間以下なのだから、人間以下のものの支持を受けるものは芸術ではない、とでも言いたげだ。ばかげた考えが実によく出ている。しかし現実は音楽も絵画も小説も大衆から遊離して成り立つものではない。映画などは最たるものだろう。それこそエリートだけのものになったなら、それは芸術とは言えない。 

 19「芭蕉を崇拝し続けた故に堕落した・・・」先生はどうしても俳句が堕落したことにしたいらしい。その理由として「天才の精神と形式とを同時に学ぶことは許されない・・・」からであり、それ故「アカデミズム、マンネリズム」に陥るという。ここでもいつ誰が決めたかわからない法則を引っ張り出してきて、読者が「えっ、そういうものなのか?」とあっけにとられている間にそのことを根拠にして持論を進めている。詐欺師的な論法だ。 
    ここで桑原先生の法則によれば、天才の精神と形式とを同時に学ぶから歌舞伎などの伝統芸術も許されない、ということになるわけだが、私には芸術に思えるのだがどうだろうか。

 20「銀供出運動に実にあざやかな宣伝句をたちどころに供出しえた大家たちが今もやはり一流の大家なのである・・・」。このあたりのことは私には実態を知る手立てが無いが、絵画の世界では横山大観などが戦費調達のために展覧会を開催している。そしてその後も一流の大家だ。 

 ここで先生は小説に対しては「近代的ジャンルだからそれが許されなかった」持ち上げている。 
  ところで、日本文学報国会で戦争協力に活躍した菊池寛や、火野葦平、林芙美子その他の一流作家達は小説家ではないのだろうか。 
  また、源氏物語も小説だと思っていたが違いましたか。もしそうであれば近代的と言えるのはいつからなのだろう。俳諧の成立した400年前より1000年前の方が近代的なのだろうか。私の言いたいことは近代的であるかないかを価値基準にして欲しくないということだ。 

 21「西洋近代芸術は大地に根はあっても理想の空高く花咲こうとする巨樹・・」。これが一流の文化人の言葉かと疑われる西洋かぶれだ。何を根拠にこのように歯の浮く言葉を・・・。「ただ先生が西洋を好きなだけでしょ」といいたい。

 「理想の空高く・・・・・西洋近代芸術の理想とはどんなものなのだろう。日本の芸術家は理想など持っていないと言うのだろうか。それぞれの持つ理想があると思うのだが、先生は西洋の近代芸術が持つ理想だけが正しくて日本人の持つ理想は理想ではないと言うのだろうか。どちらが正しいかなどは論ずるべきでもないが多様性を認めない姿勢は芸術的ではない。
 

 22「今の現実的人生は俳句には入り得ない」 と言う。 ここでも先生の根拠の無い独断があるが現実的人生とは何をさすのか教えていただきたい。私には私の考える現実的人生というものがあるが、恐らく桑原先生の考えとは大きく違うだろう。先生は「君のような庶民の考えなど取るに足らぬからエリートである私の考えを無批判で受け入れていれば良い」とおっしゃるのだろうか。 

  生きかわり死にかわりして打つ田かな   鬼城 

 私の好きな句だがこれなど簡潔にして人生そのものを表していると思う。営々として生を営む人間の行為は、田にかかわらず先祖から受け継がれ、そして次代へとつないでいく。細かなそれぞれの職業のことを語る必要はない。これこそが現実的人生と言えないだろうか。  

 23「今日の世に風雅などに遊んでいるものから光のさしようはない・・・」どうやら桑原先生は情緒というものに無縁の方のようだ。風雅のみならず身近なものに感動することを忘れた人間に何の価値があろう。どんな大事業・大改革も、目指すものは身近に起こる、手の届くところに存在する小さなものを心をこめて喜び、賞でることのできる環境を作り出すために有るのだ。そして、どんなに苦しい状況にあってもその心を持ち続ける心、豊かな平常心を持つことこそ芸術の目的であり、力ではないだろうか。
 たとえば風雅を知らない人間の作り出す社会は殺伐としたものになるだろう。そんなところに芸術の育つはずは無い。桑原先生の言う芸術とはそうした殺伐とした荒野にのみ成立するものだということであり、桑原芸術観に学ぶ必要はないだろう。 

 24「大切なのは作品である。それをどうして生産するか・・・」であると言う。まさにそれだろう。そのようにまじめに考えればよいのだ。
 この後、水原秋桜子の・・・洋画にすれば四号くらいの・・・という言葉の批判に入るのだが、「一つのジャンルの芸術が他のジャンルに心惹かれ、その方法を学ばんとすることは、・・・常にその芸術を衰退せしめると言う。そんなものなのか、と思わされてしまいそうだが、現実は他のジャンルの芸術の優れたところを取り入れつつ、独断に陥らずに柔軟な姿勢で取り組むことの方が大切ではないだろうか。芸術の目的は人間人格すべてのものであり、各ジャンルがバラバラに存在するものではないからだ。

 また、秋桜子が初心者に「最初から大作をものにしようとしても失敗するよ。だからこの辺りから始めたらどう?という手引きの意味で言っていたのだとしたら敢えて取り上げる問題でもないだろう。

 25「他に職業を有する老人や病人が余技とし…かかる慰戯を現代人が心を打ち込むべき芸術と考えうるだろうか」という。市井にあって生きるために一生懸命働きながら生きている普通の人が芸術という高尚なものに関わるから日本の芸術が低俗なものになる。そんな庶民が関わる芸術は近代人が関わる芸術とは考えられない。だから禁止すべきである。禁止できないならば“第二芸術”と呼んで区別すべきだ、という論理だ。 

   しかも俳人たちが俳句を芸術だと主張している訳ではないにもかかわらず、菊作りを引き合いに出し、「」というなら良い、と勝手に認可を与えながら突如俳句にすり替え、第二芸術という「位」を与えている。
 この日本に極めて多くのファンを持つ大きな存在のジャンルに対し、こうした失礼な論法は許されるものではない。あまりに思想的社会的無自覚が過ぎる。桑原先生は文化人である前に人間としての礼儀を欠いた野蛮人だ。 

  このような桑原先生の姿勢自体が、すでに芸術を語るべき人間の態度として許すことができないが、少し心をゆるめてあえて考えてみることにしよう。 

  まず、芸術を専門家集団のものとして市井の人々から切り離すことによって、結果的にその鑑賞者をも選別してしまっている。芸術を一部のエリート集団だけのためのものにしてしまおうとしている。この時点ですでに芸術の意味がなくなっている。
 芸術は多くの人々が取り組み、関わることによって裾野を広げ、膨大な重みと質を持つ民度の高い人々の上に、富士山のように安定した美しい存在が確立されるのではないだろうか。一部のエリートだけの煙突のようにそそり立った芸術環境では危なっかしくてみていられない。あるいはそのほうがときにはとてつもない天才が生まれるのかもしれないが、それは芸術のあるべき姿ではないだろう。 

   ヨーロッパの音楽や絵画などの芸術も時代の支配者(教会、王侯貴族、ブルジョワジーなど)の庇護を受け宗教画や肖像画ばかりが描かれた時代があった。
 人間は生きて生活できなければ芸術することができない。生きるために隠れたり曲がったり媚びたりしながらも芸術に取り組んできた。中には生きるための手段としての芸術に堕してしまう芸術家もいたことだろう。しかし、そうした挫折したものも含めて膨大な数の名も無き芸術家たちがあり、それを土台にして新しい芸術が生まれてきたのだ。決してそのことが芸術をつまらないものにしてしまうことは無かったし、そのことが人間を人間として育て上げ、他の動物との決定的な違いとなって現在の人間を作り上げてきたのだ。 

   哲学者たちに、人間とは何か、という問いがある。私は人間とは芸術する動物である、と考えている。
 私たちが人間であるための手段をなぜエリートたちに譲り渡さねばならないのだろうか。日本の知的超エリートである桑原先生は私たち庶民から人間である手段を取り上げ、いつまでも「人間以前」であれと言っているのだろうか。 

 26「現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別するがよい」。これまでみてきただけでも先生は日本の芸術、短歌、小説、彫刻はだめだと言っているわけだが、そのだめだという日本の芸術からも区別せよと言う。では俳句によって堕落した小説は第三芸術にせよということなのだろうか。あるいは俳句によって堕落したとはいえ短歌は第一芸術なのだろうか。判別しかねる論法である。 

 27床屋の俳句、あるいは川柳のごときものを芸術と呼んでよいものだろうか。ずいぶんと馬鹿にした言いようだ。桑原先生は大変高級な職業に就いていらっしゃるのだろうが、このようなエリート臭紛々たる桑原先生はすでに現代人として芸術を語る資格は無い。 
  それは作品の質の問題でありジャンルの問題ではない。さらにいえば床屋さんがピアノを弾いたらピアノ演奏は芸術ではなくなってしまうことになる。床屋さんが絵を描いたら絵画も芸術ではないことになってしまう。

 28「フランス滞在中、インテリの会話さらに下宿の食卓の談話にすら・・・芸術的使用を認める・・・だが彼らはそれを芸術などとは夢にも思っていない。・・・だからこそ芸術の尊重がある・・・」と言う。あまりに飛躍した論理だろう。会話や談話を芸術だと考えないのは日本だってどこの国だって同じことだ。おそらく「フランスは素晴らしい」という先入観がそのように見せていたのだろう。むしろ日本人の、会話の相手を慮りつつ思慮深く慎ましやかで含蓄があり、かつ機知に富んだ会話が先生には理解できなかったということではないだろうか。 

  桑原先生に言いたい。国が滅びるということは戦争で実態的に滅びることはもちろんだが、国という形があっても文化が奪われてしまったときに、自分の国の文化が相手国の文化に取って代わられたときに本当の滅亡となるのだということを。

 その意味で桑原先生は日本の文化をヨーロッパの文化に取って代わらせようとしている売国奴だと言っても言い過ぎではないだろう。 

 29「フランスでは民衆は芸術を味わう。しかしこれを手軽に作りうるものとは考えない・・・」。・・・だからフランスの芸術は素晴らしいという。民衆は芸術を味わうが作らない、作ろうともしないという。だからどうしたと言うのだ。芸術を尊重しているから作らないのだというが逆ではなかろうか。尊重するものに近づこうとして試み、その差を体験するほうが本当の尊重だろう。多くの人が芸術を鑑賞すると同時に作り出す存在でもあろうとすることによってますます磨かれているのだ。制作者は最も良き鑑賞者でもあるからだ。どちらにしても尊重して敬遠することが芸術の素晴らしさにつながるとはどうしても思えない。 

 30、そして、「日本で芸術が軽視されてきたのは、俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由」だと言う。たしかに俳句は誰にでもできる。俳句は日本人が生まれてからずっと、毎日の生活の中で実践で使っている言葉を道具として作るために多くの人に俳句を作る条件が整っているからだ。
   生活の中ではひとつの言葉、あるいは助詞一つ間違えても、イントネーションを間違えても、生活や生命にかかわる事態さえ招きかねない真剣勝負の道具だ。言葉の大切さにおいて芸術家に劣るものではない。だから言葉を道具とする俳句は誰にでもできる。街角の床屋さんでも芸術家たちと対等に渡り合えるほどに日本語を習得している人がいておかしくない。
 

 ところで市井の俳句作者の皆さんは“芸術だ”という意識で俳句を作っているのだろうか。おそらくほとんどの方は芸術を作っているとは考えていないだろう。その実態が極めて芸術的な状態であったとしても、“芸術”という意識よりも、上手く表現し得たかどうかのことに執心しているのではないだろうか。 

   ところで日本で芸術は軽視されていたのだろうか。そうではなく、日本では芸術を身の内に取り込みじっくりと愛しているのだ。生活の中に芸術を取り込んでしまっているのだ。建築に、家具に、活花に、茶に、立ち居振る舞いに、何よりもその生きる哲学に芸術がある。生活のすべてに誇りを持つ日本人一般の生き方は自らの中に芸術を持つ心があるからこそできることではないだろうか。もちろんこのことは日本人ばかりではないだろう。 

 ところで誰が芸術を軽視していたのだろう。それは桑原先生が軽視しているということではないだろうか。
 芸術は誰でもが取り組んではいけないという。では桑原先生、芸術作品を作って良い人と作ってはいけない人を分けてみてください。誰もが詩を作り、絵を描き、音楽を演奏したりしていますが、それも禁止しなければ芸術が軽視されてしまうのですね 

 桑原先生は芸術をことさらに高尚なものとしてまつり上げ、庶民から遠ざけることによって愚にもつかない怪物に作り上げ、一部のエリートたちだけのものに独占しておかなければ我慢ならないらしい。それこそ芸術を軽視し侮辱するものだろう。 

 31「近代芸術は全人格をかけての、つまりひとつの作品を作ることが、その作者を成長させるか堕落させるかいずれかとなるごとき、厳しい仕事である・・・」と言う。ふううむ大変厳しい仕事ですな、と揶揄したくなってしまう。芸術家の成長とは何を言うのか、堕落とはどうなることを言うの、我々小市民のそれとは随分違うのでしょうなあ。私には成長させるか堕落させるかjなどと大時代的言葉ではなく、真実を突き詰め表現しえたか、その作品が多くの民衆を感動させられるか否かに全力をかけるほうが本当の芸術的態度だと思えるのだが。 

   桑原先生は全人格をかける覚悟の無いものは芸術に携わるなと言う。そんなに堅苦しく考え片意地張ったもばかりでは鑑賞者は息苦しくなってしまう。もちろんそうした覚悟を否定するものではないが、そのような力の入ったものばかりが芸術なのだろうか。ちょっとした感動を作品にしたり、鑑賞者をホッとさせるような小品をものにしたりすることも必要ではないだろうか。芸術は人間のためにあるのであり、観念のためにあるのではないのだ。  

 膨大な数の芸術を愛する人たちが作る広い土台の上に天才が現れ、ひときわ高みへと連れて行ってくれるのではないだろうか。多くの、まだ全人格をかけきれないけれど、とても芸術の好きな人々がたくさんの作品を世に出していく中から、あるとき大きな爆発力が生まれて偉大な作品と芸術家が形成されるのではないだろうか。原始宇宙のカオスの中からさまざまな銀河が生まれたように。

  また、一つひとつの作品に全人格をかけ、全生活をかけて取り組んでいる俳人も少なくない。俳句という金にならないジャンルの芸術になぜそこまで打ち込めるのか不思議に思ってしまうほどだ。

 32「俳句を若干作ることによって創作体験ありと考えるような芸術に対する安易な態度の存する限り、ヨーロッパの近代芸術のごときは正しく理解されぬであろう」と言う。
  「桑原先生、誰が理解しないのですか、エリートたちがですか、一般大衆がですか。『正しく』理解などと余計な形容詞を付けてわかり難くしていらっしゃいますが、おそらく理解していると思いますよ。日本人は謙虚で、良いものは良いと素直に受け入れる民族ですから。それが日本の文化であり芸術態度なのですから」、とお答えすると、「その理解は正しくない」と言われるのでしょう。おそらく先生は「愚かな大衆には理解できまい。自分たちのようなエリートだけが理解できるのだ」とおっしゃりたいのだろうから。 

また、俳句を若干作ったからといって「創作体験あり」などと考える人はほとんどいませんよ。そう考えるのは逆に桑原先生の品性の卑しさを現しているように思えますよ。

 さてここで桑原先生の決定的犯罪性が現れる。 

 33「国民学校、中等学校の教育からは・・・俳諧的なものを締め出して欲しい・・・」と要求するにいたる。あれこれその理由を述べてはいるが、これに反論するものは「近代科学の性格を全く知らず、・・・人間社会に潜む法則性を忘れている・・・」のだと言う。まあ自分だけは知っていると言いたいのだろう。困った御仁だ。 

 桑原先生自身がこの小論文に書いているが、ご自分の子供さんが国民学校で出された宿題で俳句を作ったことが、この「第二芸術論」を書く発端になったようだ。そして、「健康な子供の多くは・・・俳句を製造するというので初めて空に月が存在するということを見つけ出す程度だから・・・」と言う。
 まさにそのことこそが大切なのではないか。身の回りにある様々なことごとに注意する、それを意識的に捉えだすという極めて科学的で芸術的な行為の端緒がそこにある。そのことを「近代科学の性格を全く知らず・・・」などと必死に否定しているが、子供が身近なことに目を向けずして、大人になって突然近代科学に取り組もうなどということは、それこそ砂上に楼閣を築くがごとき行為であろう。宇宙飛行士たちも子供のころから空を眺め、宇宙に夢を抱いた方々が多いのだ。 

 日本人の感性、美意識、自然を愛し、日常的・非日常的なものに対する観察力、観賞力、分析力、洞察力、その背後にあるもの、その存在の意味などに対する考慮などを磨き、強化する入口になるのが俳句ではないだろうか。それは自然に、人間社会に潜む法則性を知ることにもつながるだろう。それをやめろということは西洋思想に拝跪し、自分で考える力をつけさせることをやめよ、ということなのだろうか。 

 本来ならば、少なくとも日本の文化を大切にする文化人ならば、少年たちに「その瑞々しい感性で捉えた風景やことがら、そして人生を若々しい表現で表してほしい」と願うべきであろう。桑原武夫という「文化人」は、自分の肯定するもの以外はすべて廃棄するべきものという、まさにファッショ的なお考えの方のようだ。

 私は少年の頃からさまざまな先人の句を、心の中で反芻しながらものごとを感じたり考えたりし心を豊かにしてきた。
 17文字という短い詩であるため作者の理屈を押し付けられることもなく、自らの心の中で自由に感じ、拡げ、そのことをきっかけにした世界を作り出すことができた。作者の感性が捉えた美しい情景や感動的な事柄を美しいリズムを持つ言葉に変えて、ある意味抽象的な表現でありながらも生き生きと私の心に感動を持って情景を描かせてくれた。 

 

 こうして、桑原先生の「第二芸術論」をいちいち細かく、ほぼ全文に近い論点をみてきたがどこにも肯定できる内容が無い。なぜ、このようなばかげた論文に翻弄されているのか不思議だ。おそらく桑原武夫というネームバリューに圧倒されていたのではないかと思われる。 今すぐその呪縛から離れ、自由な、芸術としての俳句に取り組んでいただきたいものだ。そして香華の高い身近な芸術として、子どもたちをはじめ、もっともっと国中に、世界中に広めて欲しい。 

 蛇足 

 ある俳人と上野へ「院展」を見に行った帰りに居酒屋で一杯やりながら、俳句界は未だに「桑原武夫の第二芸術論」に捉われていると聞き、改めて読みなおし、怒りを感じてこの文章を書いた。 

 私は芸術家にとって最も大切なことは“深く考えること”だと思っている。深く考えることなく技術としての作品を作っているのなら、それは技能者であって芸術家では無い。どんなに見栄えの良いものができたとしても、それは工芸品のようなものであって芸術品では無い。 

 芸術は作品を作ることと同じくらいに深く考えるところに意味があるのだと思っている。その作業は“慰戯”としての取り組みではできない。しかし、たとえ他に仕事を持っていたとしても、あるいは病室でもその取り組みは当然のことに可能だ。
 もしプロとしての俳人たちが深く考えることをやめ、技能の競い合いをしているのだとしたら桑原先生の御説に反論できるはずも無いだろう。 

俳壇の指導者の方に教えていただきたい。 

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